そこに居続ける事はできないが

 もうずいぶんとしていない話を。

 私はよく「友達を選べよ」と言われる。「面倒な人」とつきあいすぎだと言われる。でも、そういった事を言われると必ず「ムッ」っとする。「そんなにみなさんは手間のかからない人間がお好きですか?」と。

 自助グループ(依存症の当事者同士が支え合う非営利の集団)などでは困った人はごまんといたが、もちろん自分自身もその「困った人」の一人である。多くの人に迷惑をかけ、傷つけ、しかし支えられ、育まれ、社会復帰をし、人並みに働き、不安定ながらも今の位置を築いた。
 「困った人」とつきあうのはエネルギーがいる。トラウマはその人を蝕み、そして本人がその病理を認めない限りはいつまでたっても同じパターンの繰り返し。(無意識に事実を認識することを拒んでいる場合が多い)それにつきあわされる周辺は疲弊し、人は離れて行く。でも、かつて救われた自分がその場を降りる事ができるか?私が彼らに関わり続けるのはほとんど「公務」である。好き嫌いの問題ではない。そういったシステムが社会の中で補完されず、米国スタイルですぐにカウンセラーと薬にもたれかかるのは「怠慢」なんじゃないのか?
 たらいまわしにされた人間達が少しずつ社会から排除されて、結果的に一人で対応できないレベルにまで問題を肥大化させている現状を当事者の「個人的な問題」ですませる事にムカついているのだ。
  だが、もちろんそういった話は日常的にしない。面倒だしわかってもらおうとも思わない。悪くすれば自分自身も「困った人」レッテルを貼られて終わりだ
 自助グループには社会復帰した人たちは帰ってこない。面倒な人と付き合うのはかつて当事者だった人でもやはり面倒なのだ。でも、それでも、一度体験した人が理解できなくて誰ができるのか?橋渡しが出来る人間は少なく、あまりにも貴重なのに。
 甘い考えだとは解っている。疲弊している自分にも気づく。
 そこに居続ける事はできないがしかし、「卒業」なんて言葉であっさりと離脱して社会に溶け込む事で「名誉市民」とよばれようと私の額の印は消えないし、なによりもかつての自分を裏切る行為に他ならない。
 時代がそうなんだ、みんな自分の事を防衛する事で精一杯なんだ、だからしょうがないとあきらめれば一番早いけれど、こういった理由で私は外から見れば無駄な時間を延々とかつての自分の分身である人たちと共有していく。
  
 1794/0223
☆補足☆ 支援者、ご家族のみなさんへ
 もしも自分の大切な人が依存症やメンタル的なハンデキャップを抱えている場合上に書いた様な直球勝負はレアケースです。心構えは上の様なものでいいかもしれないけど、現実はいいメンタルクリニックとの付き合いとその人にあった薬の投与(漢方を処方する医師もいる)、そして仲間づくり(自助グループでもメンタルクリニックの中のグループミーティングでも不定期のAA型ミーティングでも)そしてきちんとした距離感覚を持って見守る家族やパートナーの力が大きいと思います。時間がかかるケースもとても多いので長距離ランナーと同じような気持ちでペース配分すれば振り回されず済むかもしれません。関係性が閉塞的になると病気(を抱えた当事者)にコントロールされるのでそういった事にも意識的になるといいと思います。オススメ本は「マンガ 子ども虐待出口あり」という信田さよ子×イラ姫の本で、これは虐待を扱った本というよりも日本の家族制度そのものを問い直した本です。数ある本の中でも解りやすく秀逸です。(心理学の専門書は慣れないと読んでもあんまり実用的じゃないです)病理を俯瞰できる事できっと当事者や関係者の肩に重くのしかかったものが降り、楽になれると思います。
http://www.g-studio.com/exit/

マンガ 子ども虐待出口あり

マンガ 子ども虐待出口あり