誰にとっての表現か

rena11252007-12-11

 
 さて、触れない方がいいかなと思ったんだけど、やっぱりかきますね。先日93年の米軍のソマリアへの介入に関して描いた「ブラックホークダウン」について日記にかきまして、すぐに批判というかかなり厳しい口調でのレスが着きました。確か「そういうあんたが一番批判する資格が無い、安全地帯から言いたい事いってる卑怯者」というような内容だったと記憶しています。私は怖かったんでそのコメントをすぐに消しました。こういった対応をする事はほとんど初めてです。その書き込みをされた方がみているかどうかわかりませんが、とりあえず私がその後考えた事を少し書かせて下さい。
 
 直球で書きますが、クリントンの演説にもあったようにアメリカ人にとってソマリアでの米兵と民間人との命の重さは違ったと思います。くだんの映画を見ていて、米兵はほとんど民間人を撃っていませんが、現実にはものすごい数の民間人を殺しています。しかし描かれていません。「自由の国」アメリカですが退役軍人の組織が映画産業に対して圧力をかけているという現実があるそうで、やはり米軍に不利な描写が削られていると言う事は見ていてなんとなくわかりました。ただ、監督の苦悩が見えたので、私はこの映画を評価しました。友人に言われたのですが「すべての映画がプロパガンダにならざるをえない」と。私はこの映画をプロパガンダじゃないと言ったのは擁護したかったからで実際はアメリカという国家が圧力をかけたプロパガンダかもしれませんね。

 「公平さ」について。私も映画を撮るのでわかるんですが、「真に公平な表現」はありません。やろうと思ってもできません。カメラアングル、フレーミング、編集でのカット全てに制作者の意図が紛れ込みます。ワンカットワンカットが闘いで、自分が今どのポジションから撮っているか、この角度でいいか、今の質問で良かったか?常に自問自答です。答えは多分誰にもわかりません。何が公平かをはかるのはとても難しい。

 リドリー・スコットは予想通り「アメリカ寄りの映画を撮った」という事でバッシングされています。でも外部団体から、軍部から、政治からのあらゆる圧力を受けてよくあそこまで持ちこたえたなと思いました。彼が残したい表現がカットの隙間から私には確かに届きました。それは受け取る側によってずいぶんと違うかもしれないけど、「私には」届いたんですね。彼はよく闘ったと思います。
 
 私は日本の民間人です。自衛隊の方の気持ちも分からないし、ましてや米兵、ましてや殺される側だったソマリアの民間人の方々の気持ちは分からないです。今、殺されているイラクの民間人の気持ちもたぶん分からない。私は戦場カメラマンをする勇気も無いし、死ぬのが怖いです。戦争は知らない世代です。私の親も知りません。私に戦争を語る権利があるか?無いかもしれません。でも語ります。死んで欲しく無いから。あの映画を見て本当に殺している側の米兵の人たちにも死んで欲しく無いと心から思いました。祝福されて生まれて来た子ども達があんな風に死ぬのに耐えられなかった。

 私は映画を撮ります。その中でいろんなかなわなかった想いを織り込みたいと思います。海の向こうの戦争を、全くリアルに感じれない戦争をどうにか自分の掌の中に引き込む為に一生懸命考えて、頭は悪いけどそれなりに頑張ります。きっと何か変わると思います。私は戦場には行けないけど、いま居る場所で闘います。
 
 言葉が足らなくて、傷つけたかもしれない、やっぱり伝わらなかったかもしれない。ごめんなさい。でも、コメントをありがとう。いろいろ考えるチャンスになりました。

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